2013年09月05日

ダイジがやって来た

8月の或る日ダイジがやって来た。

わたしは誰か
誰かは誰か


posted by 巫山 at 17:23| アメンティー

2012年01月08日

伊平屋島-アマテラスの天岩戸

伊平屋島のクマヤ洞窟は、アマテラスの天岩戸。写真 2.JPG
posted by 巫山 at 23:05| ディクシャ日記

2011年12月23日

狩俣

炎夏の日


蒼いクンダリニー


狩俣の天空に吹き上げ


アストラルの風大地を揺さぶる


ダダッと砂糖黍が踊い


サシバの蒼い翼がひらりひらりと舞い降りる


鉄の三角地帯が沸々と滾り


やがて宮古の空が降りて蒼く染まる


 


蛇神の子狩俣よ


カンカカリヤよ


ニノファノマキタに狼煙を上げ


2012年のムー大陸に進軍せよ

posted by 巫山 at 02:27| ディクシャ日記

ブッダの教えパート6

信ずれば救われる、この運動=活動をやっていれば救われるのではない。信ずる者も信じない者も救われるのが神の恩寵なのである。
posted by 巫山 at 01:24| ディクシャとは

ブッダの教えパート5

目覚めているとか目覚めていないということは、人間の考えである。そんなことは執着なのだ。線引きは無間地獄に陥る。
posted by 巫山 at 01:20| ディクシャ日記

ブッダの教えパート4

焦げるような臭いを伴って頭頂に達する、クンダリニー覚醒はスピリチュアルではなく、全くの物理現象である。クンダリニーが覚醒したからといって、目覚めるとか悟りとは無関係である。
posted by 巫山 at 01:15| ディクシャ日記

ブッダの教えパート3

目覚めた人は、目覚めたとは言わないものだ。金持ちが、金持ちであるとは決して言わないと同じである。
目覚めたいという欲望、つまり、成ろうとする想念を捨てなければ神の扶養家族にはなれない。
posted by 巫山 at 01:07| ディクシャ日記

ブッダの教えパート2

人間には霊性があるはずはない。従って分神霊=分御霊があろうはずはない。
肉が魂=霊を包んでいる云々の教えは、人間の考えである。
なぜなら、神は人間をよりよく生存-人生を送る-させるためのみ肉と精を造られたのである。
神の息吹何ぞどこにもないのが真理なのである。
神の息吹は、神の膝元に入らなければやって来ないのだ。
人間が被創造物であることに気づきなさいと、古代のリシは宣っているのだ。
posted by 巫山 at 00:59| ディクシャ日記

2011年10月07日

セシウム

セシウムよ 


再誕の喜びに破顔せし爾よ


爾は何故(なにゆえ)に


振返るのかわたしを


困惑の翼を拡げて




日々(にちにち)


日々(にちにち)


赤々と舌を出す


フクシマの坩堝


爾の子等


何兆Bq(ベクレル)


世に出でし


黒い雨が止んで


黒い雪がしいんと舞い落ちる


葬列なる列島の冬




爾は何故(なにゆえ)に


振返るのかわたしを


posted by 巫山 at 00:57| ディクシャ日記

2011年09月11日

かくも長き夜の果てに

柩の列島を担ぎて

君は何処へ行くのか

かくも長き夜の果てに


宮古のイビに

五体を折りて祈る

 褥する満蒙の高粱畑

機銃掃射の音なく

空ただ蒼く
さらさらと
頭(かぶり)を振る

地下水が赤々と燃える

メルトアウトの日々
日輪は沈み 
鴉の啼き声なく
陰風が棺衣の裾を捲る

熱い夏の日

咽喉がひとつ

またひとつと

掻き斬られてゆく
かくも長き夜の果てに
 
posted by 巫山 at 00:39| ディクシャ日記