2011年12月23日

狩俣

炎夏の日


蒼いクンダリニー


狩俣の天空に吹き上げ


アストラルの風大地を揺さぶる


ダダッと砂糖黍が踊い


サシバの蒼い翼がひらりひらりと舞い降りる


鉄の三角地帯が沸々と滾り


やがて宮古の空が降りて蒼く染まる


 


蛇神の子狩俣よ


カンカカリヤよ


ニノファノマキタに狼煙を上げ


2012年のムー大陸に進軍せよ

posted by 巫山 at 02:27| ディクシャ日記

ブッダの教えパート6

信ずれば救われる、この運動=活動をやっていれば救われるのではない。信ずる者も信じない者も救われるのが神の恩寵なのである。
posted by 巫山 at 01:24| ディクシャとは

ブッダの教えパート5

目覚めているとか目覚めていないということは、人間の考えである。そんなことは執着なのだ。線引きは無間地獄に陥る。
posted by 巫山 at 01:20| ディクシャ日記

ブッダの教えパート4

焦げるような臭いを伴って頭頂に達する、クンダリニー覚醒はスピリチュアルではなく、全くの物理現象である。クンダリニーが覚醒したからといって、目覚めるとか悟りとは無関係である。
posted by 巫山 at 01:15| ディクシャ日記

ブッダの教えパート3

目覚めた人は、目覚めたとは言わないものだ。金持ちが、金持ちであるとは決して言わないと同じである。
目覚めたいという欲望、つまり、成ろうとする想念を捨てなければ神の扶養家族にはなれない。
posted by 巫山 at 01:07| ディクシャ日記

ブッダの教えパート2

人間には霊性があるはずはない。従って分神霊=分御霊があろうはずはない。
肉が魂=霊を包んでいる云々の教えは、人間の考えである。
なぜなら、神は人間をよりよく生存-人生を送る-させるためのみ肉と精を造られたのである。
神の息吹何ぞどこにもないのが真理なのである。
神の息吹は、神の膝元に入らなければやって来ないのだ。
人間が被創造物であることに気づきなさいと、古代のリシは宣っているのだ。
posted by 巫山 at 00:59| ディクシャ日記