2007年04月26日

ワンネス・ユニヴァーシティの沈黙

 南インドのチェンナイから車を飛ばして三時間ほどの、ここワンネス・ユニヴァーシティのある小さな村、アーンドラ・プラデーシュ州のワラダイアパレムは、稲を植えたばかりの青々とした水田と牛の放牧地が点在する長閑な農村地帯である。朝の宿舎の屋上からは低く連なる山並みが澄んだ空気を通して絵はがきのようにクッキリと見える。一筋の煙が立ちのぼっている。古代から変わらぬいつもの朝がやってきたのだ。
 チェンナイの喧噪の朝とは大違いだ。ピピピピ、ブー、ギィー、車の苛立つような警笛と人々の甲高い喧噪が入り混じって一種のざわめきとなって投宿の安ホテルに響いてくる。
 ワンネス・ユニヴァーシティの裏門は年代物で赤く錆びついてはいるが、分厚い頑丈な鉄の扉でできている。夜間は閉まるが、昼間は僅かに開いている。
 「買い物はしないでください。コースが終わったらお店を出しますから」
 そんなアナウンスを無視して受講生たちはコースの合間を縫って、扉をそっと開けて潜り抜けるようにして外に出る。畦道を踏みしめながらゾロゾロと列をなしてサティア・ローカの売店を目指す。売店にはパンジャブからアイスクリームまで何でも所狭しとならんでいる。
 そんな彼らの背中を十二月の午後の陽が柔らかく射る。しかし、まだかなり暑い。ときおり微風がやって来ては牛糞の臭いを運んでくる。ベットリとシャツに張りついた汗に牛糞の臭いが混じり、ムッと鼻をつく。
 微風が巫山の心をすーと吹き抜けさまざまな想いがシャボン玉のようにふわりと飛んでゆく。からだが軽くなった。
 「ここには蒼い空と心地よい風以外には何もない、そう、何もないのだ。悟りたいという想いも、霊性を高めたいという想いもないのだ」
 「瞑想は人間だけがする行為だ。動植物は瞑想はしない。存在そのものが瞑想状態であるからだ。瞑想して、瞑想して、自他との障壁が身丈を越えてゆく」。
 「瞑想とは何もないことなのだ。人が瞑想と口を滑らした途端、マインドが介入し、自然から乖離してしまい、XX瞑想、YY瞑想と終わりなきおしゃべりがずっと続いてゆくのだ」
 二〇〇一年一〇月のインドでの修養会の何日目かのことであった。前回の修養会の際に『沈黙の聖者・ラマナ・マハリシ』をラクシュミー師に寄贈したこともあってか、ダサジーサラスヴァティーのサティヤローカでの居所で、ラマナ・マハリシの世界を体験させてもらったことがあった。
 「今からラマナ・マハリシの世界を体験させてあげます。シャバ・アーサナになってください」
 「オーム、サッーチナンダ、パラアートマー、シュリヴァガバティ、サメーター----」
 ダサジーサラスヴァティーがシュルムリティに向かって合掌する。当時ディクシャはない。シュルムリティを通してエネルギーがやって来るだけであった。
 窓外で鳥がチチッ、チチッと囀っている。シャバ・アーサナに西陽が長い影を落とす。エネルギーがスー、スーと何処からか入ってくるようだ。
「きっと、霊的世界の幾層にも連なった目眩く全景【パノラマ】を見せてくれるに違いない」そう巫山は確信していた。しかし、期待に反して全景【パノラマ】は何も顕れなかった。
 それはまごうことなき何もない世界、風がそよぎ、木々の梢がサラサラと鳴り、鳥たちが囀っている、自然そのものの世界であった。
 「沈黙とはこういうことなのか、沈黙とは単に喋らないことではないのだ」
 書物の知識が崩壊していった。巫山は一瞬何かが心の襞に触れたような気がした。
posted by 巫山 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説ディクシャ
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