2007年04月19日

仲里誠桔と神智学運動

 第二回目のバガヴァン・ダルシャンが始まった。
 バガヴァン「クリシュナムリティにはマイトレーヤが降下しました」
 巫山はとっさに神智学運動の何たるかを悟った気がした。
 「うん、そうなのか。だからキリスト・マイトレーヤなんだ」
 巫山が神智学運動に入るきっかけとなったのは、今から十五年以上前に『キリストのヨーガ』の出版を故仲里誠桔先生から依頼されたことであった。霞ヶ関書房が新刊を出さないとのことでさる知り合いを通じて原稿が回ってきた。
 巫山はお世辞にもきれいとは言い難い手書きのきたない原稿を整理して、不明な箇所、風通しの悪い箇所等を指摘した校正原稿を郵送した。「何を編集者の分際で」という返事が返ってくるのではないかと思いきや、案に反して「ご指摘はもっともです。今まで、『先生のおっしゃるとおりです』からといって何一つ校正原稿らしきものは来ませんでした。こんなことは初めてです。小生はいい編集者に巡り会えて幸せです」とおっしゃっていただいた。那覇のハーバービューホテルで最初にお会いしたときのことが脳裏に浮かぶ。先生と並んで撮った写真が懐かしい。
 「本は読者に感動を与えなければなりません。翻訳は国語力です」
 先生はいつも口を酸っぱくしておっしゃっていた。
 中学の英語教師であり、かつて沖縄臨時政府の翻訳課長を務められた先生の英語力は一般的アメリカ人を遙かに凌駕していた。先生の端正な容姿がそのまま英語になったようであった。
 漢文の素養をふんだんに鏤められた文章は、言いしれぬ感動を呼んで正しく言霊そのものであった。その秘密は夏目漱石にあったようだ。
 「親父は夏目漱石で文体を勉強したんだ。今でも漱石の全集がどさっと我が家に積んであって処分に困っています」
 「ドストエフスキーは潔癖性の親父には合わなかったのでしょう。トルストイを読め読めとしつこく言われました」そんな話をご子息から赤提灯で何回も聞いた。
 仲里誠桔という求道者の姿を見た想いがした。
 「二度と仲里誠桔のような翻訳者は出てこない」巫山はいつもそう思いながら、最終巻である『神智学大要第五巻「太陽系」下巻』の最終校を印刷所に突っ込んでインドへやって来たのだ。
 「コースが始まる頃には刊行されて、予約者の手元には届いているだろう。これでもう自分の役割が終わったのだ」巫山は独りごちた。

 巫山にとってインドはサティア・ローカのダルシャンツアー以来四年ぶりであった。三鷹の事務所も引き払われて、カルキの運動は低迷していた。アマチの会場に顔を出すと、きまってカルキの連中が屯していた。ムルガン氏が菓子折を下げて会社に訪れたのを今でも想い出す。
 「お世話になりました」
 「そんなこと言わずに、今までの運動を総括して頑張ったらいかがですか」
 昔日の感がする。
 その間、巫山は伝統医学にかまけて内モンゴルやジャワ、バリ島などに遊んだ。旧市街地の市場近くにあるモンゴル医学の診療所での治療体験、シャーマン・ボーの招神の儀と病気治し、今にもジンギスハンの騎馬隊が地平線から現れそうな内モンゴル・ハイラールの高原、そのゲルで羊を一頭捌いての饗宴、なぜかそのとき巫山は捌かれる羊の眼に仲里先生の気配を感じた。木内はテリグリを纏ってモンゴル人たちと楽しそうに踊っている。九月の初めであった。モンゴルの大地は少しずつ冷え込んでいた。

「さまざまなクエッションが止めなく湧き上がってくる。骨折が命取りになったとのことであるが、前立腺の手術も結果良好で、退院許可が出ておりながらなにゆえトイレへ行く途中転倒して骨折せねばならないのか? なにゆえジュアルクールは助けないのか。なにゆえ本人の欣求--『神智学大要』のコーザル体が刊行されたら東京で講演会をやりたい。神智学大要が終わったら『コズミック・ファイアー』の要約書を書きたい|--を叶えてやらないのか。なにゆえ近しい人を長期間海外へ追いやり、容態の情報を聞けなくしたのか。なにゆえ前立腺の手術は取るに足らないとの意識を入魂したのか。前立腺の手術が必要不可欠でなかったにもかかわらず、なにゆえ手術をしたのか-----------」(とんぱ五号編集後記)。

 帰国してすぐに泊のお宅に電話を入れたが、すでにスパゲティ症候群であった。久高島の高位のユタさんが入院されているとの噂の泉崎病院であった。享年八十三歳。極端な正食が片肺、片目、片耳の体を無理強いしたらしい。豆腐も口にされなかったと聞いている。「仕事をさせたから早く逝ってしまわれたのか」そんな自責の念が過ぎる。ちょうど改訳決定版の『神智学大要』第三巻の下の校正原稿が終わっていた。「四巻以降は戴いている赤字だけでやっていくしかないな。もうキャッチボールはできないからなあ」。
 巫山「先生、これはどういう意味ですか。これじゃあ、読者に分かりませんよ。それから差別用語がたくさん出てきますが、いいんですか」
 先生「そうですね。早速、原文を調べてみます。けむじゃらのアイヌはやめた方がいいでしょう」

 人は役割を終えると地上生活に別れを告げると言われているが、仕事半ばで彼岸に行かねばならなかった先生は断腸の想いであったに相違ない。ジュアルクールはなぜ助けないのか。黒色同胞団に肉体を拉致されたのだと巫山はずっと悔しがった。
 「泊のお宅にはクレームさんの絵が掛かっていたな。いつぞやその絵から風が吹いていたっけ、あれは二度目の久高島行きの折りにお邪魔したときだったな」懐かしい想いがふつふつと湧いてくる。

 その日のことを今でも鮮やかに想い出す。巫山の歯はなぜか先生の本を出す度に一本一本なくなっていくのであった。そんなわけでこの日も歯の治療にお茶の水までやって来ていた。そして朝十一時時頃、歯の治療中にふと荒々しい波動が止んだ。お別れであった。
 それから那覇で偲ぶ会をやり、東京で一周忌とバタバタと日は過ぎていった。
 ようやくにして一昨年五月、墓参に来ることができた。時折灰色の雲塊が来たかと思うと、パラッと、雨を落としてゆく。墓はマンションの隣にある。本土のように忌み嫌って寺院や霊園などに建てはしない。生者と死者はいつも一緒なのだ。線香が三本ずつ両端に立てられる。内地の拝み屋さんは三本線香を嫌う。動物霊や呪詛を祓う儀式に用いているからだという話もあるようだ。
 「お父さん、巫山さんご夫妻が来ましたよ」いつものように奥様が耳の遠かった先生に聞こえるように大声で呼びかけている。巫山は先生の無念さを考えると正面切って「先生、やって来ましたよ」とも言えず、どう言ったらいいのか戸惑いを覚える。
 やりたくないが、一瞬意識を集中する。先生がふわっとやって来た。どうも長居しそうなので、「また来ますから」と言って慌てて手を合わせ墓参をすまし、首里のご自宅に寄る。自宅からは首里の裏門がすぐそこである。裏門の前の小高い丘は今では公園になっていて、そこには琉球王朝の尚氏一族が祀られている礼拝所が点在している。巫山は挨拶もせずに、真っ正面から写真を撮った。たかだか尚氏だから挨拶の必要もあるまいと思ってのことだった。。帰りの車の中でどうしても目が開かないのだ。とっさにやられたと思った。「すいません」と礼拝所に向かって窓越しに小さく頭を下げた。幸い運転手は巫山でなかった。
 「お父さん、巫山さんご夫妻が来ましたよ」と奥様は仏壇に向かってまた大声で呼ぶ。

posted by 巫山 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説ディクシャ
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