2007年04月14日

ワラディクシャの真義

 巫山は近々ブログにワラディクシャの真義なるものを書こうと思っている。以下のような内容である。

 バヴァガバンは「神は友達である」と定義しているように、神をパーソナルなものとして措定することによって、神と人間との形而上的関係性に血と肉を付け加えたのである。このことによってワラディクシャは成立している。
 ワラディクシャは願望成就のディクシヤといわれているのは周知である。
 「皆さんの願いを叶えなければ、皆さんは私たちの所には来ないでしょう」(バヴァガバン)と表立てて述べているが、人間が己の赤裸々な物質的願望を神に希求し、それに神が応えるというワラディクシャは、キリスト教をはじめとする従来の神学からすれば、神への冒涜以外の何ものでもない。まさしくコペルニクス的転換が図られたのであった。
 このような転換の背後に秘匿された真実とは一体如何なるものであろうか。それは、「あなたの考えがあなたの考えでないように」、「あなたは存在するが、存在しないように」と同様に「神は友達であるが、友達でない」ということである。このことは裁きの神、慈悲の神を超えて、神が下降して人間と同じレベル(で考えるように)なったということではなく、神と人間がワンネスであるという事実を意味する。従って、あなたの心口意の三業は否応なく天の大鏡に映し出されることになる。
 体験は往々にして個人を喜ばせるようにしてやって来るが、ワラディクシャは、人間のカルマと対になってやって来る。その人間のカルマを捕獲し、引っ剥がし、河原に晒し首を吊すかのようにしてやって来る。
 例えば子供の学資資金がなく、×××××××円を希求したところ、交通事故にあって保険金から希望どおりのお金が支払われた、五月蠅い両親から自由になりたいと願ったところ、両親が立て続けに亡くなった、子宝を授かったが、身内の誰かが亡くなった、病気祈願をしたところ、自分は恢復したが家族が病気になった、というようなおぞましい成就はワラディクシャではあり得ないといわれているが、果たしてそうであろうか。巫山はワラディクシャにカルマがべったりと憑依してやって来るのをずーっと見ている。
 すべてのディクシャは究極的にはワラディクシャであり、ワラディクシャはカルマディクシャである。難病もまたワラディクシャである………。
 物議を醸(かも)しそうだ。どうやらこの辺で筆を置いた方が無難らしい。

posted by 巫山 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説ディクシャ
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