2007年04月16日

ワラディクシャがやって来た

 水曜日の早朝ディクシャはもうかれこれ二年以上続いている。お出かけ前のディクシャであったものがいつの間にかサンカルパ的なディクシャに変わっていったのは必然であった。
 「ディクシャ・バガヴァン、××さんのガンを今すぐ治してください」頭に手を当てながら毎回祈る。自然療法をに見切りをつけ、止む得ず病院の門を叩いていった方、今なお西洋医学を拒否して、痛みに耐えかねている方の姿が目に浮かんでくる。
 「恩寵はないのか」と巫山は大声で叫びたくなる
 ディクシャでなぜガンを治せないのか、バガヴァンの話では奇跡が起こって何人もの人たちの難病が完治していると言うではないか。巫山という器では治せないということなのか、己がヒーリングをやらないからなのか、やれば良くなるのか、そんな能力があるのか、またしても禅問答が続く。こうして櫛の歯が欠けるようにひとり一人ディクシャから抜けていく。
 そうこうしているうちにワラディクシャがやって来た。六月二日の深夜、木内の母親が脳梗塞で風呂場で倒れ、意識を失う。明日からリハビリですという嘘の情報を聞かされる。顔が土気色で生命が危ない。医師の診立てでは、右脳の七〇%がやられおり恢復が難しいとのことだった。帰り際、頭部にさっと触れるとハアーといってからだが反応する。「ディクシャは効く」、巫山はとっさにそう感じた。
 朝夕、僅かな面会時間のなか、集中治療室で木内と二人してヒーリング・ディクシャを行う。四、五日たった明け方、巫山の頭の中を火花が一瞬走る。鍛冶屋のあれである。「治った」。やがて一般病棟に移り、点滴から流動食に変わったが、意識はまだ戻っていない。
 二度目がやって来た。運転する巫山の目が痛くて開けられない。目を何度も擦る。病床で本人の目が開いていた。

 悟りの六カ月はとうに過ぎていた。あれからもう随分月日がたったが、巫山には悟ったという気配が一向にしない。マインドは相変わらず活発だし、自他の壁は厚い。
 ハイアー・ビーイングの降臨があってもなにゆえ悟らないのか。ラマナにシヴア神が降臨し、巫山には薬師佛が降臨したが、なぜこんなに違うのか。降臨は単なる神降ろしに過ぎなかったのか。なにゆえ薬師佛に自己が溶解しないのか。神秘体験と悟りは全く関係がないものなのか。またしても禅問答が果てしなく続く。
 「こんなことはインド人にとってはお茶の子さいさいさ。意識を操作すればいいことだ」という声が外野から聞こえてくる。
 

posted by 巫山 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説ディクシャ
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